反出生主義よいよね

ミーム

吾輩が思うに出産は諸悪の元凶である。
そして人類は自発的に絶滅へと向かうべきなのだ。

反出生主義に目覚めてからは気持ちが大らかになった。人間として一段上のステージに立てた気がするんだ。
なぜだか救われている感じがする。反出生主義はネガティブな思想なんかじゃないよ。むしろハイになれる。人類を救済(絶滅)する使命感で胸いっぱいですよ。いや、別に何かやるわけじゃないよ!?

本当に反出生主義が最強すぎてヤバい。まさに真理そのもの。難民や紛争、格差、地球温暖化等々の問題なんかも人類が絶滅すれば解決するわけですから、反出生主義は全ての問題を解決できる。
反出生主義は思想上の究極の統一理論なのです!だから反出生主義さえ知っていれば余計な事で悩まなくて済む。

これはもう悟りに近いんじゃないかな?実際ブッダの悟りには反出生主義が根底にはあったはずだし。
ベネターの理論は完璧だが、ベネターの主張が全部正しいわけじゃない。だからこそ逆に自分で考える余地がある。それもまた楽しい。

死が全てを解決する。人間が存在しなければ、問題も存在しないのだ。

ー ヨシフ・スターリン

理想の惑星

どこか彼方に
 戦争のない惑星がある。
そこには飢餓もない。
 貧困もない。
  殺し合いもない。
 あらゆる悪が存在しない。

   そして酸素もない(^_^)

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混沌と秩序

万里の長城知能の方程式 - TED.com
エントロピーの増大が知能を生み出したと言う説。
カオスの度合いが増すと知能が低下しそうなものだが、その逆だと言うのは面白い。

「利他的行動は戦闘で進化」するそうだし、カオスや戦争が知能や愛情を発達させると言うのは中々希望がある話。
世界から戦争がなくなる事がなくても、世界が戦争一色になる事もない。カオスの中から秩序も生まれる。

団結した集団の力は部分の合計を上回る。「万人の万人に対する闘争」状態の中では、いち早くより大きな集団を形成したものが戦いに勝利し、その集団内部では秩序が回復する。「数は力」で安全圏は徐々に拡大、やがて国家を形成する。
しかしエントロピーの増大という絶対法則は秩序を崩壊させもする。安全圏の中から反乱分子も生まれるので大帝国は内乱で分裂し、再び混沌に飲み込まれ人類は離合集散を繰り返す。

では混沌と秩序はどちらが優勢であろうか?
協力した方が有利になるのだから、人はどんどん協力的に進化する。日本人が不親切なのは単に進化が遅れているだけだ。
小さな共同体はやがて国家に成長し、更にEUの様な超国家が現れ、中国はシルクロード構想でユーラシア全土を結びつけようとまでしている。
秩序の領域は確実に広がっている。停滞や逆行する事があっても文明は着実に進歩している。
人類の未来は明るい。それでもエントロピー増大による終着点が滅亡である事に変わりはないがw

社会進化論 - Wikipedia
スペンサーは進化を一から多への単純から複雑への変化と考えた。自然は一定した気温でなく寒冷と温暖を作り、平坦な地面でなく山や谷を作り、一つの季節でなく四季を作る。社会も単純な家内工業から複雑化して行き機械工業へと変化する。イギリス帝国が分裂してアメリカが出来る。芸術作品も宗教の形態も何もかもすべて単純から複雑への変化として捉えるのだが、単に雑多になるのではなくより大きなレベルでは秩序をなすと考えるのである。未開から文明への変化は単純から複雑への変化の一つである。

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Might is Right は正しくない

英語のことわざ"Might is Right"(力は正義なり)は「勝てば官軍」とも訳されるが,「勝てば官軍」には「勝敗と善悪は無関係」と言う意味が含まれているのに対し、"Might is Right"は「正義は必ず勝つ」「強者こそ正義である」と言う教えであり、「勝てば官軍」とは根本的に異なる。

"Might is Right"は一神教の発想だ。
一神教では強者には神のご加護があり、弱者は神の教えを破ったから罰が当たったのだと考える。
ユダヤ人がエジプトで奴隷にされた時もユダヤ人の指導者は「これは我々が神の教えに忠実ではなかったせいだ」と自分達を責めたし、イギリスがヴァイキングの侵略に晒されていた時もイギリス人の牧師は「ヴァイキングが強いのは神の後押しがあるからで、イギリスが弱いのは信仰が足りなかったからだ」という風に言っていた。

"Might is Right"の考え方の下では強者はますます増長し、弱者は自虐的になってしまう。
弱肉強食を正当化する論理であり、アメリカで社会的弱者への救済が積極的になされない理由の一つではないか?

Might is Rightは強者による暴力すら肯定しかねない危険思想だ。
アメリカが世界最強の軍事力を持ちたがるのも、力の強い自分達こそが正義なのだと思いたいからなのかもね・・・

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二元論の誤ち

「この世には2種類の人間がいる。 人間を2種類に分ける人間と、そうでない人間とだ」

我々には「善か悪か」「有益か有害か」と言った風に何でも二分するクセがある。
しかし薬も過ぎれば毒になるように、どんな物にだって良い面と悪い面がある。
一部分だけ切り取ってそれを「良い/悪い」などと判断するのは危険であろう。

「性善説/性悪説」や「男女の友情は成立するか?」と言った何千年議論しても結論が出ない問題などは、大抵の場合両方とも「部分的に」正しいのだ。
片方が完全に間違いならとっくに答えは出ている。

物事は白黒ハッキリ分けられるほど単純ではない。多くがグレーなのです。
何事にも例外はあり、しかも状況は常に変化する。
人間万事塞翁が馬ってね。良かれと思ってやった事が逆効果になったり、失敗したと思ったら結果オーライだったり・・・絶対的に正しい答えは出せないだろう。

「どちらが正しいか?」ではなく「どちらがより正しいか?」と言う割合の問題に過ぎない。
オール・オア・ナッシングでは割り切れない。「イチかゼロじゃナインだ!!」って江川達也も『ONE ZERO NINE』っていう野球漫画の最終回に書いてましたしね(^^;

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正義とは何か?

時々何が正義なのか、分からなくなる。世の中に絶対確実な「正義」などないのではないか?
「絶対悪」と呼べる物は存在する。悪いことは悪い。だが「絶対正義」なんて表現はあまり聞かない。
「善」と「正義」は別物だ。「善」は何もしなくても「善」だが、「正義」には行動が伴う。では正義の行いとは何か?

「力なき正義は無力」と考えるならば正義とは「正しい力」、「正しい暴力」の事であろう。
しかし暴力はどこまで行っても暴力でしかない。これを「絶対悪」とするなら、正義とは必要悪であるという事にならないか?

歴史は勝者によって作られる。「勝てば官軍」で勝者は自分の暴力を正当化する為に敗者を貶める。
正義は相対的なものだから、相手が極悪人ならばそれに対抗する自分は相対的に正義になれるのである。

こうして考えると正義と悪とは紙一重である事が分かる。薬も過ぎれば毒になるように、正義が相対的な物である以上、見方によっては正義も悪と変わらないのだ。

正義

アパルトヘイトは合法だった。
ホロコーストは合法だった。
奴隷制度は合法だった。
植民地主義は合法だった。

合法かどうかは、正義の問題ではなく、権力の問題である。

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善悪とは何か?

「善悪」という概念は人間関係の中から生まれた物であり、人間関係を円滑にする為にある。いわば暗黙のルールである。
もし無人島に一人で生活しているなら善悪の判断は必要がない。「快か不快か」だけを考えて行動すれば良いのだから。
「独善」という言葉がある様に自分が「善」だと思っていても他人にとっては善であるとは限らない。他者が賛同しない善行は善とは言えない。独善に陥らない為には熟慮が必要です。

善悪の判断の根底にも「快楽を求め苦痛を避けようとする」快楽原則が存在する。
立川談志が喝破した様に「良い人とは、自分にとって都合の良い人」の事であり、結局は他者(社会)を利する行為が「善」と呼ばれ、他者(社会)を害する行為が「悪」と判断される。
最大多数の最大幸福の追求こそが唯一の絶対的な善なのです。

人口減少は一人当たりの資源が増加して豊かさが増すので「善」であり、人口増加は資源を巡る争いが激化して皆が貧しくなるので「悪」だ。子供を作るのは悪である

社会全体が得する行為が「善」であるから、善良な人間が多い社会は必然的に発展する。発展している社会は善良である公算が高い。
善悪はそのコミュニティーの中での価値観なので、コミュニティーの外で「良い事」をしてもそれは善ではない。マザー・テレサが「自分の国で苦しんでいる人がいるのに他の国の人間を助けようとする人は、他人によく思われたいだけの偽善者である」と言っている通りである。
とは言え、回り回ってそれが世界全体を良くする事に繋がるかもしれないので偽善が必ずしも悪いわけではない。

逆にコミュ二ティーの外でなら悪事を働いても良いのかと言うと、コミュニティー同士が互いに攻撃し合う破滅的状況を招くので、それはやはり「悪」だ。
しかし国家単位で非常に大きな文明レベルの違いがある場合などは侵略されるのも悪くない。日本政府に統治されるより外国に併合された方が国民が幸せになれるなら、それは良い事です。

薬も過ぎれば毒になる。同様に「効用」の変化によって善悪は逆転する。戦国時代であれば「権力の世襲」が秩序の維持に役立ったので世襲は良い事だったかも知れない。
しかし現代では例え世襲の権力者が平均的な能力を持っていても、もっと優れた能力を持つ人間が排除される事によって結果的に社会全体に機会損失を与えているのだから権力の世襲は「悪」であり、天皇制はそれ自体が害悪です。

社会が平等であるほど「最大多数の最大幸福」が高まる事が判明しているが、完全な共産主義は生産性を下げるので悪だ。資本主義も悪であり、社会主義くらいが丁度良い。
実際優れた社会であるヨーロッパの国々は殆ど社会主義なのです。

この様に善悪の判断には熟慮も必要であり、西洋では古代ギリシャ哲学から始まりキリスト教神学に受け継がれ、今も善悪について考え続けている歴史があるからこそ「良い社会」を築き上げる事ができた。
日本人には善悪の区別がつかない人が多い。「右へ倣え」で他人に合わせているだけで自分で考えているわけじゃない。
善悪が分からないから良い社会が何かもわからない。日本人は思慮が足りていないのではないか?

アインシュタイン

人々がただ罰を恐れ、報酬を望むというだけで善良であるなら、我々は実に哀れむべき存在だ。
アインシュタイン

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「真善美」は思考停止ワード

パンドラの箱真・善・美は普遍的な「人間の理想」であるとされているが、本当にそうだろうか?
映画『ダークナイト』には「真実が必ずしも最良ではない」と言うメッセージが込められたシーンがある。
知れば知るほど絶望する事もある。パンドラの箱の寓話の様に知らない方が良い事もある。
古代の哲学者の時代なら「真実」は貴重で価値があっただろうが、科学が解き明かした「真実」は決して気持ちの良い物ばかりじゃないのです。

【参考】人間の祖先、巨大な口を持つ袋状のクリーチャーだった

「真理」を求める知識欲も所詮は我欲に過ぎない。我欲は美しくないので「美」と矛盾する。

「善」は理想ではあるが理想と現実は違う。つまり善は真ではない。真実だけを追求するなら人権を否定するのが「正しい」行いになってしまいます。

「美」を求めるのは醜い物を差別する事に繋がる。その行為自体が美しくないし善い事でもない。

この様に「真善美」には矛盾する部分があるので、この三つを並べて平気で使う人間は思考停止している。
真善美を全て含む状態は「」しかないであろう。無である事は絶対的に真であり、悪でもないから善。醜くもないから美しいと言える。

やはり生まれてこない事こそが最高の理想の状態だ。デイヴィッド・ベネイターの様な反出生主義の哲学こそが最強でしょう。

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科学的とは何か?

プラグマティズムには可謬主義やアブダクションと言う考えがあるそうだ。人には無知の知があり、どんな人も間違い得る。
ならば間違ってても良いから積極的に発言しましょうと言うのが無謬ならぬ可謬主義。
これはとても素晴らしい考え方だ。プラグマティズムこそ最も科学的な態度ではなかろうか?

アブダクションとは演繹法、帰納法に対する第三の推論方法で「仮説形成」「仮説的推論」などと訳されている。
ある事柄を説明するのに仮説を用いる。仮説は間違っていても良いのです。仮説の「否定」によってより真実に近づけるのだから。
「否定の否定」という弁証法的プロセスによって仮説が進化する。既存の「科学」を疑い否定する事が科学の進歩を生み出すのです。

科学を妄信するのは非常に危険。「科学的に説明できる事しか信じない」という科学原理主義はむしろ非科学的であり科学の発展を妨げる。

日本の地震学者は「地震予知は科学的に不可能」と諦めてしまったが、地震学は発展途上の学問であり地震が起きる原因についてさえハッキリと分かっていない。
「現在の科学で不可能」だからと言ってその可能性まで否定してしまうのは間違っている。
緊急地震速報のような「予知」は出来ているのだから10年後、100年後には地震予知が可能になっているかも知れないのに。

古代ギリシャ哲学はオーパーツと呼べるほど先進的でデモクリトスの原子論などは現代物理学を2000年以上先取りしていた。
当時としてはそれを証明する術がなかったので「科学的」な仮説であるとは考えられてなかったが、科学的に証明できなくてもデモクリトスは正しかった。
科学には限界があり全てを解明する事はできない。人は科学を妄信せず「不可知」の部分を認め、恐れるべきなのだ。

テレゴニーを最初に発見したのは「万学の祖」と称えられるアリストテレスだ。
「2300年前の古代人の説だから」と言ってテレゴニーを安易に否定する者もいるが、当時は科学が発展していなかったからこそ現象をありのままに認識できたとも言える。
「1890年に動物学者のAugust Weismannによって否定されている」とウィキペディアには書かれているが1890年代にはDNAもマイクロキメリズムもエピジェネティクスも発見されていなかった。
昔は科学的に証明できなくても現在では逆にテレゴニーの原因が解明されつつある。

科学しか信じないと倫理や良心すら失われる。だから科学原理主義者にはサイコパスが多い。
『ホンマでっか!?TV』に出てる脳科学者の澤口俊之は完全にサイコパス。マッドサイエンティストになってる。

プラグマティズムでは仕組みが分からずとも有用な物であれば「真」であると考える。
科学者は積極的に「神」の存在を否定しようとするが中二病的で大人げない態度だ。
世界宗教は必要に応じて作られた。イスラム教だってイスラム教徒の間では役に立っている。
プラグマティズム的に考えるなら宗教は有用なので「真」だ。
神に対しては不可知論こそが最も科学的な態度です。

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幸福とは何か?

幸せは主観的な物なので定義するのは難しいが、確実に言えるのは幸福とは「不幸でない事」だ。
幸福になりたければまずは不幸にならないように心がけるべきである。

人は「得られない」事よりも「失う」事の方をより強く嫌がるらしい。
幸福には限界があるが不幸には底がない。あなたが自分を幸福でないと感じているとしたら、それは幸福である以上に不幸を抱えているせい。

人間を不幸にする最大の要因は将来に対する不安だろう。現状に満足していて、それが一生涯続くと確信できるだけで人は最大限の幸福を享受できる。
どんな大金持ちでも将来に不安があれば最大幸福ではいられない。

人間は変化が大嫌い。誰もが永遠の安定を求めてる。だけど変化しなければ生き残れないというジレンマを抱えているから人生は辛いのだ。
ギャンブルをする習慣のある人の幸福度は低い。勝ったり負けたりを繰り返す不安定さが幸福感を損ねているのだろう。
政情不安のある国の幸福度が低く、安定した高福祉国家の幸福度が高いのは偶然ではない。
幸福な人生を歩むには、不安をなくす事が肝心なのだ。

『天国に至る道は、地獄に至る道を熟知することである』
- マキャべリ

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中庸は愚の骨頂

日本人は中庸な選択を好むと言われる。選択肢が三つあれば真ん中のを選び易い。
中庸である事は確かに素晴らしい。しかし中庸とはあくまでも倫理の問題であって政治や戦略的判断を必要とする場面で通用する考え方ではない。

「中庸な選択こそが常に正しい」と錯覚している人がいるが、明らかに間違っている。例えばチキンレースで勝負した場合、勝つのは限界ギリギリまで踏み込んだ方であり中庸なんてヌルい事を言ってる奴は絶対に負ける。
中庸では勝負に勝てない。日本企業が国際競争で負けるのは日本の経営者が中庸な判断を好むせいだろう。

世界最高企業のアップルやサムスンは中庸なんて考えは持っていない。彼らは非常に極端である。
「勝者が総取りする」シビアな競争下では極端でなければ生き残れない。
サムスンは参入した分野では必ずシェア1位になろうとしている。1位になれそうにない分野には最初から参入しない。
1位でなければ利益が出ないからだ。必ずしも1位を目指さない「中庸」な考えでは企業が衰退するのは当然だ。

日本人が中庸を好むのは真ん中を選んでさえいれば「大きくは外さない」と言う責任回避的な心理が働いているからだ。
中庸が一番無難なのである。だが異なる意見を足して二で割ったからと言ってそれが中庸になるとも限らない。
中庸は本来「熟慮」を必要とするが、真ん中を選ぶだけなら何も考えずともできる。それを中庸とは言えないだろう。

原発をゼロにするか、維持するかという問題で「中庸」を持ち出すのはおかしい。原発をなくすか否かの判断に中間点なんてあるわけない。
中庸という言葉を利用して妥協させようとしているだけだ。しかし妥協すれば双方共倒れになる事もある。どちらか一方しか救えない状況で中庸などと言い出すのは愚の骨頂!

日本で使われている「中庸」とは本来の意味から離れて奴隷道徳に成り下がっている。国民から妥協を引き出す為の。。。
日本人の多くは中庸を理解していない。中庸と言う言葉は難し過ぎる。言葉が難解なせいで何事にも通用する「真理」であるかのように錯覚され、詭弁家に利用されてしまっている。
「偏るのは良くないよ」と言っているだけなのだから「中庸」なんて大げさな言葉を使わない方が良い。中庸は不要なのです。

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哲学とは何か?

哲学とは一言で言うと「真理の探究」であろう。「わからない事」についてあれこれ考えるのが哲学。
だが皮肉な事に哲学者が追い求める真理が「絶対に正しい」と証明されてしまうとそれは哲学ではなくなってしまう。証明された時点で科学になってしまうのだ。

科学が未発達だった古代においては宇宙や生命の神秘について説明するのはもっぱら哲学者の役割だった。
しかし現代ではそれらは科学に取って代られているので哲学者の出る幕はない。
哲学とは科学が解明できていない事柄について考える事・・・!
要するに全てが妄想であり仮説に過ぎないのだ。それ故に哲学は疑似科学的、疑似宗教的である。

哲学は非科学であるがゆえにトンデモ仮説を多数含んでいる。だが反証可能性が求められる科学の常識に縛られないからこそ大胆な発想ができ、古代にビッグバンや原子論の原型を予見できた。
ハンパでない仮説力・・・実に素晴らしい!
哲学は斜陽ではあるが、科学が万能でない以上 完全には駆逐されず生き残り続けるだろう。

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