一般的に人生の目的とは「幸福になる事」であり、幸福の追求は無条件で良い事だと信じられているが、幸福なんてものは所詮「馬の目の前に吊るされたニンジン」と同じで「生きる苦しみ」を誤摩化す為に存在しているに過ぎない。
幸福のみを目的に生きるのは、ただ食べる為だけに生きてるのと変わらない。

幸福は相対的な性質も持つ。他者との比較によって感じられる部分が大きい。
幸福に必要な資源は有限である。従って誰かが幸福になれば相対的に別の誰かが不幸になる。人々の間の幸福感はトレードオフの関係にある。

例えば、日本は世界の食料の1割を消費しているが、その半分を廃棄している。無駄な消費によって食料品の値段が上がり、ギリギリの所で生きている途上国の貧民が餓死に追い込まれている。
我々の飽食は途上国に飢餓を生み出してまで必要な事なのだろうか?

飛び抜けて幸福な人が一人いると、その人を見ただけで周囲の人間は相対的に「自分は不幸」だと感じる様になる。
移民でも移民先の生活水準を元に自分の人生に対する相対的な満足度は変化するそうですからね。
際限のない「幸福の追求」はそれ自体によって他人を不幸にする「反社会的行為」である。

幸福は絶対的正義ではない。むしろ強欲や利己主義などの「悪徳」と結びつき易い。幸福を求めるのは我欲の一種。そういう欲望から一切の苦しみが生まれて来るのです。
イジメなどもいじめっ子が自分の快楽を追求した結果として起きる。反社会的な幸福の追求は制限されねばならない。

幸せそうな家族やカップルを見るだけで、そうでない人間は惨めで不幸な気持ちになるのだから「公共の場」で子供を連れたりイチャイチャしてはならない!!
ヨーロッパなどではレストランに子供を連れて入る事はできない。糞ガキを野放しにしないのは「公共のマナー」として先進国では当然の様に受け入れられている。

80対20の法則で個々人がベストを尽くしても結局は一握りの勝ち組が富や幸福の大部分を握ってしまう。
しかし収穫逓減の法則があるので所有する資源と幸福度は正比例しない。年収が一定のレベルを超えると幸福度に変化はなくなる。
と言う事は個人個人が自分の幸福を最大化しようと試みて格差が大きくなるほど社会全体の総幸福度(最大多数の最大幸福)は下がる。
所得格差が小さければ小さいほど全体の幸福度が高まると言う事は既に経済学では証明されている。

日本は国民が利己的で自分の幸福を最大化しようとした結果、格差は大きくなり全体として不幸な社会になっている。合成の誤謬が起きている。
皮肉に思えるが世界で最も幸福度が高い国は世界で最も利他的で平等な北欧諸国なのです。
世界の国々は北欧を模範とし、日本を反面教師とするべきだ。

皆が平等な状態で幸福であるならば良いが、不幸な人間を見捨てて自分だけ幸福になるのは道義的に許されない。
幸福には反社会的性質が潜んでいるので幸福の追求ではなく「平等の追求」こそを行っていくべきです。

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