反出生主義とビーガンは同列に扱われる事が多い。ビーガンで反出生主義の者も多いからだ。支持層が被っている。
ビーガンは世間から煙たがられているが、ビーガンの反出生主義者がビーガン特有の高圧的なノリで反出生主義も広めているせいで反出生主義者のイメージまで悪くなっている。
態度が悪いのはビーガンであって純粋な反出生主義者ではないのです。

ビーガンの反出生主義者は心に余裕がないね。やっぱり肉を食べてないからトリプトファンが不足してて情緒不安定なのだろう。
「非ビーガンの反出生主義者」を紛い物扱いしてくるけど、反出生主義は語義的に「子作りに否定的」でありさえすれば反出生主義者を名乗れるのだから、ビーガンかどうかなんて全然関係ないんだよ。

ビーガンは発言が極端すぎる。そもそもビーガンとは菜食主義の究極的な形であり、正に過激派。ビーガンは反出生主義に関しても過激になりがちだ。
反出生主義と親和性の高い仏教では中庸・中道の大切さが説かれている。ブッダも「ゆるベジ」だった。ビーガンの如き過激派はブッダが生きていたら諌められただろう。

以下は「反出生主義者」についての考察への反論。

コストは、それが匿名のオンライン上で行われることも考慮すれば、ほとんどゼロ

コストが低いのは良い事だ。反出生主義は宗教ではない。「喜捨」や「信仰告白」の様な義務は存在しない。
反出生主義が広まっているのは「今」だからだ。技術の進歩がローコストでの反出生主義の実践を可能にした。
「犠牲を払っている」事を誇るのは苦行的だ。ブッダは苦行も否定していた。他人に苦行を強いる事はできない。
反出生主義なら誰も苦しむ事なく食肉も減らせるのだからビーガニズムより効率的だ。

「反出生主義は(原理的には)あらゆる加害を回避するから、自分は(動物製品の消費などを通して)他者を害してもいい」

これは藁人形論法による詭弁。誰も「反出生主義者なら何をやっても許される」とは主張していない。反出生主義だろうとビーガンだろうと倫理的に最優先で守るべきは人権である。
人権こそ倫理の頂点。人間には健康的に生きる権利がある。ビーガニズムを貫徹すると何も食べられなくなる。自己欺瞞によってしか生存できない。よって人権の行使によって我々はビーガニズムを拒否する事ができる。
「生きるために食べる事を認めろ」と言っているだけだ。ビーガンは「人権」と「動物の権利」を同等と見なしているから話が噛み合わない。我々は人権の方を優先するからビーガンによる人権侵害を認める事はない。

人権を守りつつ、人々の幸福を大きく損ねる事なく他者への危害も減らしていく。その最適解は反出生主義であってビーガンではない。

動物学者リチャード・ドーキンスが、「痛みは、同じことを繰り返すなという警告であるため、物覚えが悪く、知性が特に乏しい動物たちは、同じことを繰り返すべきでないことを即座に学ぶことができるほど十分賢いヒトと比べて、より強い痛みを感じるかもしれない」。と推測している

これも科学的根拠のない「権威に訴える」詭弁だ。痛覚は進化によって獲得された物であるから高等な生物ほど痛みを感じやすいと言う推論も可能だ。
例え人間同士であっても飢餓状態であれば共食いもあり得るし、それを咎める事はできない。動物相手なら尚更だ。生きている以上、他の生物の犠牲は避けられない

結局のところ、anti-natalismを掲げて、他者の生殖に関わる行為を批判するには、少数の選択肢しかないように思われる。

誤った二分法 (false dilemma)による詭弁。動物に倫理はない。反出生主義は人間の倫理の問題であって動物に反出生主義は求めない。
人間以外の全生物の絶滅を目指す様な狂った発想に付き合うつもりはないから。

ビーガン食は不健康なだけでなく、知能が低下する可能性も指摘されている。ビーガンになってしまった人達を、とても残念に思う。

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